12月22日【今日なんの日】大坂冬の陣の和睦が成立した

過去の大阪市の「今日」はどんな事が起こった日だったのでしょうか?
33
大坂冬の陣 布陣図

1614年12月22日(慶長19年)

大坂冬の陣の和睦が成立した
大坂冬の陣-和睦と大阪城の埋め立てのあらすじとネタバレより一部引用)


徳川家康側からの和睦交渉は、一説によると大坂冬の陣の開戦直後の1614年(慶長19年)10月から交渉が始まっていたそうで、徳川家康の交渉役は本多正純・後藤庄三郎で、豊臣家の交渉役は大野治長・織田長益でした。初めに和睦交渉を開始した織田長益が豊臣秀頼に和睦を勧めたが、豊臣秀頼は和睦に応じなかったそうです。

12月頃になると、大阪城は完全に封鎖されていたため籠城する豊臣衆は、もはや食料も弾薬も尽きており、このまま行けば落城するのは確実な上、徳川軍の大砲に怯えた淀君が和睦に傾き、12月16日に行われた軍議では、和睦を提案する意見が出たが、豊臣秀頼が「城を枕に討ち死にしよう」と言って、またしても和睦に賛成しませんでした。

しかし、牢人・後藤又兵衛や真田幸村は和睦に賛同し、それでも豊臣秀頼は和睦には賛成しなかったが、最終的に砲撃によって和睦に傾いた淀君が豊臣秀頼を説得すると、豊臣秀頼は淀君の為に和睦を了承したという。

そして12月18日、江戸幕府軍・京極忠高の陣営に和睦の席が設けられ、豊臣家の使者は常高院と大蔵卿局で、徳川家の使者は茶阿局と本多正純であり、3つの条件により和睦が合意に達したので、徳川家康は12月20日に大阪城への砲撃を止め、全軍に停戦を命じたそうな。
翌日、豊臣家の木村重成が徳川家康の本陣を訪れ徳川家康の起請文を受け取り、1614年(慶長19年)の「今日」、徳川家康の使者として茶阿局と板倉重昌が大阪城を訪れ、豊臣秀頼から起請文を受け取り、和議が成立した模様。

この大坂冬の陣の和睦について、和睦しなかったらどうなっていたや、粘れば豊臣軍が勝っていたのではみたいな妄想をしている記事があり、なかなか興味深くて面白かったです。 



その他の今日の出来事

  • 大坂および平野郷町の繰綿延売買会所廃止 – (1787年)
  • 上町大火、焼失町数52町、家数1110軒など – (1789年)
  • 幕府、市中繁栄のため茶屋・芝居小屋を公認。冥加金上納を復活し、本組・仮組への株札交付を指示 – (1857年)
    (大阪市史編纂所より)

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。